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最高裁判所第一小法廷 昭和24年(れ)295号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人高屋市二郎同河野太郎上告趣意第一点について。

本件は、昭和二二年一月一八日全官公共同鬪争委員会が二月一日を期して官公廳職員各労働組合総罷業を決行すべき旨のいわゆる二・一ゼネスト突入宣言を発表し、翌一九日朝の東京都下各新聞がその報道をなすや、被告人外一名は罷業の中止を勧告するため産別会議議長聽涛克己を訪れたが不在で面会を得ず、さらに翌二〇日同人を訪れ押問答の末両人が予め携えていった肉切庖丁や刺身庖丁を揮って聽涛克己に傷害を加えたという事件の上告である。刑法三六條又は三七條の関係においてかかる「ゼネストと言うような特殊の侵害若しくは危難と、鉄拳や棍棒の一撃と同一に論ずべきでない」ことは所論の言っているとおりである。後者は主として個人的、瞬間的、突発的に生起し得る比較的單純性をもった現象であるが、これに反し前者は、組織と檢討と計画と規模とを有し巾と長さと複雜性をもった社会現象であることは、多言を要しないところである。そして、終戦後日まだ浅く多くの都市は戰災による荒廃のまま放置され復興の緒にもつかざる昭和二二年初頭の頃において、ひとたび大規模な総罷業が行われんか、国民全体から見れば比較的極めて少数者のために交通、通信は麻痺せしめられ、各種の生産は阻害せられ、ひいて公共の福祉、国民の安全利福は著しく侵害せられるに至るであろうことは、容易に観取し得るところである。さて、刑法三六條にいわゆる急迫の侵害における「急迫」とは、法益の侵害が間近に押し迫ったことすなわち法益侵害の危險が緊迫したことを意味するのであって、被害の現在性を意味するものではない。けだし、被害の緊迫した危險にある者は、加害者が現に被害を與えるに至るまで、正当防衛をすることを待たねばならぬ道理はないからである。また刑法第三七條にいわゆる「現在の危難」についても、ほぼこれと同様のことが言い得るわけである。そこで、原判決の認定したところによれば、各官公廳労働組合の争議は昭和二一年一一月中旬頃から発生し、その後判示のごとき経過をたどり、漸次参加組合の範囲を拡大し共同鬪争態勢をとり、遂に昭和二二年一月一八日全官公共同鬪争委員会は、二月一日を期して全官公廳各労働組合が総罷業を実行すべき旨の宣言(このゼネスト突入宣言の中にはなお二月一日以前において彈圧を受けた場合には、それが如何なるものであろうとも、自働的にゼネストに突入することが記載されている)を発表した事態にあったのである。原判決はかかる事態を観察して、「本件犯行当時は單に共同鬪争委員会が、その総罷業の準備をしてその計画と実行を発表したに止まり、未だ罷業は実行されていなかったのであって、從って罷業の実行による社会の安寧秩序の紊乱乃至国民生活の窮迫という事態は発生していなかったものであるから、国民の自由又は生活に対する現実の侵害はまだなかったものというべきである」となしこの理由によって急迫な侵害又は現在の危難に当らないと判定した。しかし、急迫な侵害又は現在の危難は、前述のように被害の現在性を意味するものではないから、原判決が現実の侵害がないという理由をもって急迫な侵害又は現在の危難がないとした判断の誤まっていることは、論旨の正確に指摘するとおりである。しかしながら(一)本件の主張は、個人的法益の防衛行爲ではなく、国民の安全利福の防衛に関するものである。かかる公益ないし国家的法益の防衛が正当防衛として認められ得るか否かについては、これを否定する学説見解もないではないが、公共の福祉を最高の指導原理とする新憲法の理念から言っても、公共の福祉をも含めてすべての法益は防衛せらるべきであるとする刑法の理念から言っても、国家的、国民的、公共的法益についても正当防衛の許さるべき場合が存することを認むべきである。だがしかし、本來国家的、公共的法益を保全防衛することは、国家又は公共團体の公的機関の本來の任務に属する事柄であって、これをた易く自由に私人又は私的團体の行動に委すことは却って秩序を乱し事態を悪化せしむる危險を伴う虞がある。それ故、かかる公益のための正当防衛等は、国家公共の機関の有効な公的活動を期待し得ない極めて緊迫した場合においてのみ例外的に許容さるべきものと解するを相当とする。そこで、原判決の判示した前述の具体的な客観的事態情勢は、国家公共の機関(連合国の占領下にある現状においては、占領軍機関をも含めての有効な公的活動を期待し得ない極めて緊迫した場合に該当するに至ったものとは到底認めることができない。從って、かかる事態の下においては、被告人の行動を正当防衛又は緊急避難として寛恕するを得ないものと言わねばならぬ。さらに、(二)刑法第三六條及び第三七條にいわゆる「已むことを得ざるに出でたる行爲」という観点から眺めるならば、一層容易にかつ明白に同じ結論に達することが理解されるであろう。防衛行爲が已むことを得ないとは、当該具体的事態の下において当時の社会通念が防衛行爲として当然性、妥当性を認め得るものを言うのである。そして、殊に前述のごとく国家的、公共的法益に対する侵害等を私人が防衛する場合に、已むことを得ざるものとして当然許容さるべき範囲は、整備せる現代国家の機構組織の下においては、必然的に比較的極めて狭小な局限されたものたるべきことは国家理論の帰結として何人も承認しなければならぬところである。さて、本件においては、総罷業に突入の危機に際し、一私人たる被告人等が「この総罷業は、産別の指導によるものであるから、同会議の指導者である同会議議長聽涛克己に交渉し罷業中止方を勧告することとし、但し当時の一般状勢より見て聽涛克己に左様な勧告をしても、同人が之に應ずるかどうか疑問であり、又たとえ同人が承諾しても同人独りの力を以てしては今更罷業を中止させることは至難であろうから、若し聽涛が罷業中止の勧告に應じなかったならば一面同人が指導者として事茲に到らしめた責任に対する制裁として、又他面同人を傷つけることによって社会的センセイションを捲き起し、総罷業計画團体を動揺させるため同人に対し暴行傷害を加え」るに到ったものである。そもそも暴力は野蛮の遺風であり、暴力沙汰は文化国民として恥ずべきものであることは言うを俟たない。かかる事態においても、かかる暴力の行使は、現代国家生活における法律秩序と社会平和をかき乱す以外の何ものでもないことは、健全な常識に照らし、寸毫も疑念をさしはさむ余地がない。かかる暴力の行使は、やがて暴力の専制的支配を是認する思想に通ずるものであって、立憲国家においては厳に排斥しなければならぬところのものである。從って、社会通念は、かかる行動を当然として是認し許容するはずがないことは、極めて明白であって、かかる行爲は正当防衛又は緊急避難として寛恕さるべきものではない。それ故、原判決の理由づけには上述の誤りがあるにしても正当防衛又は緊急避難を認めなかったその結論はまことに正当であり、論旨は結局理由なきものと言わねばならぬ。(その他の判決理由は省略する。)

よって旧刑訴第四四六條に從い主文のとおり判決する。

この判決は裁判官全員の一致した意見である。

(裁判長裁判官 真野 毅 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 岩松三郎)

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